ギリシア神話、北欧神話、エジプト神話、インド神話 ——。
日本も含め、世界中の各地にはそこで古くから伝えられてきた神話が存在します。
そこで語られる世界観や登場する神々は各神話体系によって多種多様で、そのどれもが独創的・個性的です。
現代人の感覚からすれば「え?何それどういうこと?」と言いたくなるような突拍子もない逸話もたくさんあって、どの神話もそれぞれ自由奔放なストーリーを展開しているように見えるかもしれません。
しかし遠く離れた別々の神話同士でも、出てくる逸話の内容をじっくり見比べてみれば、なぜかよく似た共通のパターンが浮かび上がってくることがあるのです。
今回ご紹介する「バナナ型神話」はそんな複数の神話に見られる定番パターンのひとつ。
超単純化するとこんな感じのストーリーのことです。
むかしむかし、石とバナナのうち、バナナのほうが選ばれました。
それから私たち人間は、バナナみたいにすぐに死んでしまう運命となったのでした。
… え?何それどういうこと?
この記事では、
- 典型的なバナナ型神話の具体例
- 日本神話や漫画に見るバナナ型神話のエッセンス
- 人類を悩ませてきた生と死と愛をめぐるテーマ
についてまとめています。
一見関係のなさそうな神話と神話が、まるで示し合わせたかのようにリンクする…。なんだかワクワクしちゃいますね。
バナナ型神話とはどんなものか
バナナ型神話という概念は、イギリスの人類学者ジェームズ・フレイザー(1854-1941)が命名し世に説いたものでした。
フレイザーは世界中から膨大な量の神話や民間伝承や呪術といった類の民俗学的な事例をとにかく収集しまくった人物です。
その蓄積をまとめた『金枝篇(きんしへん)』という書籍は、民俗学や宗教学の貴重な資料として評価されています。
ある日フレイザーは収集した神話をもとに比較研究していると、
なんか東南アジアあたりの伝承にやたらバナナ出てくるな…
といったことに気がつきます。
まあバナナの原産地もそのあたりですしね。
そして神話におけるバナナというのは、決まって人間の死を象徴する重要なアイテムとして登場しているのでした。
バナナ型神話の典型例
フレイザーは、人間の死の起源をバナナ(またはそれに類するもの)によって説明するタイプの神話を「バナナ型」と分類しました。
まずはバナナ型神話のもっともスタンダードな形がどんなものか見ていきましょう。
インドネシアの島々に伝わる古い伝承から、2つの逸話を要約してご紹介します。
インドネシア スラウェシ島の伝承
これは世界が始まった最初のころのお話 。
神様が天界から地上へ「石」を贈りました。
私たち人類の祖先である男女は、その石を冷ややかな目で見て、こう言いました。
「こんな石ころがあっても役に立たないなあ…。神様、もっと別の何かをくださいよ!」
すると神様は石を引き上げて、次は「バナナ」を地上に贈りました。
今度は、男女は喜んで駆け寄ります。
「やったー!ありがとう神様、いただきまーす!」
そんな二人を見て、神様はこう告げるのでした。
「はい、バナナを選んだね。じゃあこれからお前たち人間もバナナみたいに、子どもを産んだら親は死んで、短命のうちに世代交代を繰り返していく運命になるからね。もし石のほうを選んでいれば、お前たちも変わらぬ永遠の命をもつはずだったんだけどなあ…。」
こういうわけで、私たち人間は限りある寿命をもつ存在になったのです ——。
これがスラウェシ島に伝わる神話の事例です。
もうひとつ、別パターンいきましょう。
インドネシア セラム島の伝承
昔むかし、「石」と「バナナの木」とが口論をしました。
議題は「人間がどのような存在であるべきか」でした。
石の主張は次のとおりです。
「人間は石のような外見で、石のように硬くなければならない。手・足・目・耳は一つだけでよく、そして不死であるべきだ。」
対してバナナの木はこう言い返します。
「人間はバナナのようであるべきだ。手・足・目・耳は二つずつ持ち、バナナのように子を産まなければならない。」
言い争いをしているうちに、怒った石はバナナの木に飛びかかって粉砕してしまいます。
しかし翌日にはバナナの子孫たちがそこに生えてきて、また同じ口論に発展するのでした。
同じようにバナナを殺してはまた新しい子孫が生え…ということを繰り返しているうちに、石はある日崖っぷちに生えたバナナの木に飛びかかろうとして、そのまま深い谷底へと落ちてしまいました。
バナナたちは喜びます。
「そこからではもう戻ってこれないな!私たちの勝ちだ!」
すると石はこう言ったのでした。
「わかった、じゃあ人間はバナナのようになればいいよ。その代わり、バナナみたいに死ななきゃいけないけどね。」
こういうわけで、私たち人間は限りある寿命をもつ存在になったのです ——。
以上セラム島バージョンでした。
味付けは違いますが、本質的にはさっきの話とかなり似てますね。
長寿と短命の二者択一
このようなストーリーが、いわゆるバナナ型神話の典型的な例です。
どちらの逸話にも、キーアイテムとして「石」と「バナナ」が出てきましたね。
そしてそれぞれ共通のイメージを担っていました。
「石」は、不変・長寿・不死の象徴
「バナナ」は、変化・短命・死の象徴
そして人間はそのどちらの運命にもなり得たのだけど、最終的に寿命のあるバナナのほうが選ばれた。
しかしバナナの運命は短命だけではなくて、世代を交代しながら子孫へ命をつないでいく性質もまたセットでついてきます。
この点も両神話に共通して言及されていました。
まとめると、人間の運命はこのような二者択一に迫られていたわけです。
「個の死による子孫繫栄」 VS 「個としての不変不死」
こうした対比の構造が、バナナ型神話の肝となる部分です。
面白いことに、これと同じ構造をもったストーリーが世界中の色んな神話にめちゃくちゃ出てくるんですね。
死を象徴するアイテムはバナナとは限らず、その土地の神話体系に応じて様々。
それでも、長寿と短命を巡る二者択一の構造自体は、不思議なほどに一致しているのです。
バナナ型神話の変形例
せっかくなのでまったく別の地域の神話から、バナナ型神話と分類されるストーリーをピックアップしてみましょう。
取り上げるのは「ナイジェリア神話」、そして「日本神話」です。
いずれもバナナは出てきませんが、先ほどのインドネシアの伝承と同じエッセンスが感じられるかと思います。
ナイジェリアのバナナ型神話
世界が始まった最初のころは、あらゆる命に死というものはありませんでした。
ある日、カメの夫妻が子どもが欲しいと考えて、神様にお願いに行きました。
「神様、私たちは子どもが欲しいのです。」
それを聞いた神様はこう言います。
「しかし子どもを持つと、いつまでも生きていられなくなるよ。そうじゃないとカメが増えすぎてしまうからね。」
カメの夫妻は答えました。
「わかりました。子どもを授けてください。そのあとでなら死んでも構いません。」
間もなくして、カメの夫妻の間にはたくさんの子ガメが生まれます。
それから人間の夫妻も同じように神様へお願いに行って、自分たちの子どもを授かりました。
その様子を見ていた石は、べつに子どもが欲しいと思わなかったので、神様のところへは行きませんでした。
こういうわけで、私たち人間はカメと同様いつか死ぬし、子どもを持たない石は死ぬこともないのです ——。
短命の象徴であるバナナが、カメに置き換わっていますね。
「男女の性」が加わっている分、より人間に近づいた感じがします。
日本のバナナ型神話
昔むかし、地上に降り立った神様ニニギノミコトは、ある日たいそう美しい娘に出会って一目ぼれをします。
彼女の名はコノハナサクヤヒメ。
山の神様であるオオヤマツミの娘でした。
ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメとの結婚を申し出ると、オオヤマツミはこれを喜んで承諾します。
その際オオヤマツミはコノハナサクヤヒメだけでなく、彼女の姉であるイワナガヒメも一緒に嫁がせることにしました。
しかしイワナガヒメは妹とは違って、たいそう容姿が醜かったのです。
ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけを妻にし、イワナガヒメのほうは実家に送り返してしまいます。
オオヤマツミはこれをとても残念がってこう言いました。
「イワナガヒメを送ったのは岩のような永遠の命を願って、コノハナサクヤヒメを送ったのは花のような繁栄を願って、せっかく二人の娘を嫁がせたのに…。コノハナサクヤヒメだけを選んだのでは、彼の子孫も栄えはしても儚い命となるだろうね。」
こういうわけで、神様の末裔である天皇の寿命も、そう長くはないのです ——。
この逸話は、古事記や日本書紀で語られる「天孫降臨」と呼ばれる一連のエピソードのうちの一部です。
神々の住む天上の世界「高天原(たかまがはら)」から、ニニギが三種の神器とともに地上の「高千穂(たかちほ:今の宮城県)」に降り立って国を治めたこと。
このときニニギによってもたらされた高天原の稲穂が、日本の稲作文化の始まりとされる。
ちなみにニニギノミコトは、有名な天照大神(アマテラス)の孫であり、また日本の初代天皇・神武天皇(じんむてんのう)のひいおじいちゃんにあたる神様。
彼の降臨はまさに、今に続く皇室の系譜のルーツ、ひいては日本という国の成り立ちのルーツでもありました。
そんな建国の起源を伝える重要な神話の中にも、実は死の起源をにまつわるお話が含まれていたんですね。
姉のイワナガヒメは「岩」= 不変・長寿・不死の象徴(石)
妹のコノハナサクヤヒメは「花」= 変化・短命・死の象徴(バナナ)
こうした逸話があることは、天皇家による国の統治を継続していくうえでも利点がありそうです。
というのも、「本当に神様の子孫なら天皇が死の運命から逃れられないのはおかしくない?」みたいな素朴な疑問に対して、きっちりと説明ができるから。
それは天皇のご先祖様が自らお選びになった運命なんだよ、と。
神話の世界と現実との整合性が取れることで、ストーリーに説得力が生まれるわけです。
現代の創作にみるバナナ型の構造
このように、世界各地で古くから語られる伝承の中に「バナナ型神話」という共通のテンプレートが見いだせることを確認してきました。
ではここでさらに視野をグイっと広げてみましょう。
長寿と短命の対比を描く物語の構造は、必ずしも伝統的な神話だけでなく、漫画や映画やゲームといった現代のフィクション作品の中にも息づいているのです。
神話学者の沖田瑞穂氏は著書の中で次の有名な作品を取り上げて、バナナ型神話との関連性を指摘しています。
- 漫画『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)
- 絵本『100万回生きたねこ』(佐野洋子)
死なない鬼と死ぬ人間
近年を代表する大ヒット作『鬼滅の刃』では、人間である主人公たちと、人間を襲う「鬼」との戦いが描かれています。
主人公の竈門 炭治郎(かまど たんじろう)は、鬼になってしまった妹の禰豆子(ねずこ)を人間に戻すために冒険を続けていく、というストーリー。
作品に登場する鬼は、太陽光を浴びるか首を取られるかしない限りは死ぬことがありません。
彼らは独善的・利己的で、個として完結した永久不滅の存在として描かれます。
対して人間のほうは、個々はすぐに死んでしまう儚い存在なのだけど、炭治郎と禰豆子が体現するような家族愛や深い絆といった価値観がある。
ここに、バナナ型神話で見てきた対立構造がそのまま重なるわけですね。
「個の死による子孫繫栄」 VS 「個としての不変不死」
人間は死んでしまう運命にあるけれども、種として子孫を残していくこと、愛する家族を成すことができる。
不死の鬼にはそれができず、自分という存在のまま生き続ける。
神話に見てきたバナナと石の関係性とそっくりです。
「鬼」は、不変・長寿・不死の象徴(石)
「人間」は、変化・短命・死の象徴(バナナ)
そういえばセラム島の伝承でも、石がバナナを襲っていましたね。
エロスとタナトスの不可分性
バナナもカメもコノハナサクヤヒメも、『鬼滅の刃』における人間も、みな不死に対しての「死」を担っていたわけですが、それだけではありませんでした。
寿命のある短命な存在は、必ず「愛」「子孫繁栄」といった儚くも華々しいイメージもあわせもっているのです。
この両者はいわばセットなんですね。
ナイジェリア神話のカメの逸話でも、愛する男女が自分たちの子供を授かることの代償として、死の運命を引き受ける過程が語られていました。
愛と死はひとまとまりである。
どちらか一方だけということはあり得ない。
これは、大ロングセラーの絵本『100万回生きたねこ』のラストにも通じる命題です。
主人公のねこは、死んでもまた生き返る存在で、百万年にわたって色んな飼い主の下で命を繰り返していました。
みんなからモテモテなのに、ずっと自分のことだけが大好きな、死を恐れることもないねこです。
あるとき一匹の白猫に初恋をして、子どももたくさん生まれて、ねこは自分よりも白猫や子どもたちのことの方がもっと好きになりました。
しかしやがて子どもたちは立派に成長して自分のもとを離れていき、白猫も寿命で死んでしまいます。
そこでねこは生まれて初めて泣いて、ずっと泣き続けて、ある日泣き止むとそのまま自分も死んで、それからはもう二度と生き返ることがなくなるのです。
どうしてねこは、最後には本当の意味で死んでしまって、生き返ることでできなくなったのか。
これまで見てきた死と不死の対立構造をふまえると、「愛を知ったから」ということになるのでしょう。
その代償として死の運命を引き受けたのだ、と。
愛は性でありそれは死と切り離せない。エロス(愛)とタナトス(死)は表裏一体なのだ。そしてそれらは不死の対極にある。それが神話の論理である。
沖田瑞穂『すごい神話』(2022, 新潮選書)
ここで言及されている「エロスとタナトス」という対比は、近代の心理学者フロイト(1856-1939)が、著書『快感原則の彼岸』の中で登場させた概念として有名です。
オーストリアの心理学者・精神科医。
精神分析の創始者として現代心理学の先駆けとなったほか、「無意識」の概念を発見した功績で知られる。
エロスは、生きる情動、美しい愛の情動。
タナトスは、死へと向かう欲動のこと。
フロイトは精神分析理論において、やはりエロス(愛)とタナトス(死)は表裏一体で切り離せないものとして説きました。
そしてそれらは、人間を人間たらしめている基本原理であると。
ちなみにエロスもタナトスも、ギリシア神話に登場する神様の名前が由来です。
エロスは愛と美の神、タナトスは死の神。
結局また神話の世界に話が戻ってくるんですね~。
死は昔から人類普遍のテーマだった
ということで今回は、世界各地の色んな伝承に通底した神話あるある、バナナ型神話の構造についてでした。
- 人間の寿命の起源は、不死を象徴する「石」vs 死を象徴する「バナナ」の二者択一にある
- バナナを選んだ人間は短命になったが、同時に愛や子孫繁栄の性質を手に入れた
- 愛と死は表裏一体のワンセットであって、どちらももたない不死とは対立の関係にある
こういったテンプレートが念頭にあると、様々な神話や創作のストーリーをより深く読み解くための補助線が見えてくる感じがしますね。
世界各地でこんなにも似た逸話のパターンが多く出てくる背景には、きっと文化同士の直接の交流や間接的な参照の影響もある程度はあったのでしょう。
しかしそれ以上に「どうして人間は死ななきゃいけないんだ」という問いが、とにかく人類にとってはめちゃくちゃ普遍的で重大なテーマだったのではないでしょうか。
だって死ぬのは恐ろしいですもんね。
愛する誰かが死んでしまうのも、やっぱり辛すぎる。
だから死の運命に理由を与えておくことは、たぶん太古の昔から最優先の課題だったのです。
そして各々が真剣に考えまくった結果、もっとも洗練された答えのひとつとしてバナナ型神話が形成されていった。
バナナ型神話のいいところは、人間の死の起源を教えてくれるだけではなくて、人間に備わる愛の性質も一緒に教えてくれるところにあるように思います。
フロイトがあえて指摘する何千年も前から、エロスとタナトスの不可分性はすでに神話の中に組み込まれていたわけです。
その神話のおかげで人類は、
「まあ限りある命だからこそ、精一杯生きてる今が美しいんだよね」
「愛するみんなや子どもたちの未来のためなら、自分の命も惜しくないよ」
といった具合に、避けられない死という運命をなんとか愛によって上手に許容してきたのかもしれません。
鬼に挑んでいく炭治郎を応援したくなるのは、私たちがバナナ型神話のメンタリティとともに生きてきた人類の子孫だからでもあるのかなぁ。