「公用語」とは、国や地域や特定の機関などにおいて共通語として公に用いられることが定められている言語のことを指します。
たとえばドイツの公用語は、ドイツ語だけ。
カナダの公用語は、英語・フランス語の2言語。
国際連合(国連)の公用語は、英語・フランス語・中国語・ロシア語・スペイン語・アラビア語の6言語もあります。
では、日本の公用語とは何でしょうか?
「もちろん日本語でしょ」と多くの方が考えると思うのですが、実はこれは不正確です。
というのも、日本国憲法においては日本語を正式な公用語として定める条文がないのです。
ですので厳密には「日本の公用語は規定されていない」ということになります。
まあ実際には日本国内で最も普遍的に使用されている言語は日本語だし、公用文も基本的には日本語で記されているわけなので、事実上の公用語として機能はしているんですけどね。
ということで今のところ、世界の国の中で「正式に公用語を日本語と定める国家」は一つも存在しません。
ただし「正式に公用語を日本語と定める州」なら世界に一つだけあるのです。
それが、パラオ共和国の「アンガウル州」。
パラオの中心地から遠く離れた、人口わずか100人ちょっとの離島です。
ここが世界で唯一日本語を公用語に定めている地域…
なぜ…?
この記事では、
- パラオとアンガウル島の概要
- 日本とパラオとの歴史的な関係性
- 日本語由来のパラオ語の例
についてまとめています。
パラオってどんな国?
まずはアンガウル州を有する「パラオ共和国」という国がどんなところか見ていきましょう。
パラオは、太平洋のミクロネシアに浮かぶ小さな島国です。
第二次世界大戦後は長らくアメリカの管理下に置かれており、完全な独立国家として成立したのは1994年とかなり最近になってからでした。
首都はマルキョク、最大の都市はコロール。
1万8千人ほどの人口のほとんどはこのあたりに集中していますが、周囲にたくさんの小さな無人島が連なって国土を形成しています。
噂のアンガウル州は、本土からはかなり南に離れたところにポツンと位置しています。
地図の下のほうの「Angaur」と書いてある部分ですね。
総面積8平方㎞ほどの小さな島が、そのままパラオの16ある州のうちの1つとなっています。
そしてこの島こそ、世界で唯一日本語を公用語として規定している地域。
アンガウル州憲法では公用語を3つ定めていて、パラオ語、英語、そして日本語と記載されています。
こちらがその部分の抜粋です。
ARTICLE XII
GENERAL PROVISIONS
(A): Official Languages
Section 1. The traditional Palauan language, particularly the dialect spoken by the people of Angaur State, shall be the language of the State of Angaur. Palauan, English and Japanese shall be the official languages.
パラオの伝統言語、特にアンガウル州民によって話されている方言を、アンガウル州の言語とする。パラオ語、英語、日本語は、これを公用語とする。
アンガウル州憲法 第12条1項 より
アンガウル州憲法が制定されたのは1982年。
アメリカからの独立へ向けて、パラオ全体が独自の憲法を採択し「パラオ共和国」としての国家体制を整えていく準備過程でのことでした。
ちなみに現在は、実際に現地の人々が日常会話で使用するのはパラオ語か英語かのどちらか。
日本語が登場する場面は基本的になく、あくまで憲法上の定めがあるだけ、というのが実情のようです。
当時のアンガウル島の人々がなぜ日本語を憲法に盛り込んだのか。
時代をさかのぼって両国の関係性を探ってみましょう。
実は深いパラオと日本の関係
パラオと日本との関係性の始まりは、100年以上前にまでさかのぼります。
日本でいうと大正時代。
世界的には、第一次世界大戦が勃発していた激動の時期でした。
ドイツ・オーストリア・オスマン帝国を中心とした「同盟国」と、イギリス・フランス・ロシア を中心とした「連合国」とが対立した世界各国を巻き込んでの大規模な戦争。
日本は当時結んでいた「日英同盟」を理由に、連合国側として参戦した。
ヴェルサイユ条約による委任統治
第一次世界大戦より以前、もともとパラオやミクロネシア一帯の島々は、ドイツの植民地となっていました。
ところがドイツが敗戦国となると、ヴェルサイユ条約にもとづいて一切の海外植民地を手放すこととなります。
連合国側とドイツとが1919年に締結した、第一次世界大戦の講和条約。
敗戦したドイツはすべての植民地を手放し、大幅な軍備制限と多額の賠償金を背負わされた。
逆に連合国側で参戦していた日本は、このヴェルサイユ条約によって2つの統治権を得ます。
- 中国の山東半島の旧ドイツ権益
- 赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島
この「南洋諸島」というのがミクロネシアのあたりを指す当時の呼称で、ここにパラオも含まれていたのでした。
つまりパラオはドイツの敗戦で一旦は外国の支配を逃れたものの、ホッと息をつく間もなく、間もなく今度は日本軍がやってきて統治されるハメになったわけですね。
当時の島民たちからすれば、たまったものではないでしょう。
ただ一応日本としても、国際連合からの委任をもとに、ドイツの植民地だったエリアを先進国として保護してあげるという名目がありました。
みなさん解放されたばかりでまだ大変でしょうから、私たちが国の運営をいろいろサポートしますね!
と、まあ実質的には植民地化とさほど変わらないのですが、こういうのを委任統治といいます。
日本は南洋一帯を統治するための拠点として1922年に「南洋庁」を組織しましたが、この本部が置かれた場所こそ、現在パラオ最大の都市となっているコロールでした。
これを機にコロール島には続々と日本人が集うようになり、島の日本人の人口がパラオ人を超えるほどの移住者があったようです。
パラオと日本との関係性は、この時代にスタートしたんですね。
日本の同化主義と日本語教育
日本の統治が始まると、パラオのインフラ整備や経済開発が進められました。
たとえば公共のインフラとして、道路・港・学校・病院の建設など。
産業の方では、農業・漁業・リン鉱石の採掘などが主要産業となり、日本の技術や資本のもとで大きな経済発展を遂げます。
また文化的な影響が大きかったのは、やはり学校での日本語教育の強化です。
日本は教育を通じて自国の言語や文化を浸透させることで、現地の人々を日本国民の一部として取り込むような支配の方針を取っていました。
こういった支配の形は「同化主義」といって、当時の日本(やフランス)に特徴的な植民地統治の思想でした。
同化主義を良く解釈すれば、非差別的で、現地の人々を同胞として受け入れる温かな統治とも言えます。
逆に批判的に見れば、一方的な抑圧のもと、現地の伝統や固有の文化を冷徹に破壊する統治といった感じでしょうか。
ともあれ、パラオの言語や文化や暮らしぶりは、日本の委任統治を経てどんどん日本っぽく染まっていきました。
1930年くらいの時期にパラオで生まれた現地民からしてみれば、小さい頃から当たり前のように日本語教育を受けて、外へ出れば日本人がたくさん歩いているような環境だったわけですからね。
家庭内ではパラオ語、日本人と話すときは日本語、といったバイリンガルがたくさんいたのでしょう。
また政治や公衆衛生など、この頃新たに導入された概念に関しては日本語がそのままパラオ語としても定着することにもなりました。
【政治・インフラ】
- Daitorio:大統領
- Senkio:選挙
- Iosang ang:予算案
- Kohosia:候補者
- Dengkibu:電気部(発電所)
- Skozio:飛行場
- Daingak:大学
- Totsidaitsio:土地台帳
【公衆衛生】
- Kensa:検査
- Niuing:入院
- Chanzen:安全
- Haisia:歯医者
- Baiking:ばい菌
【日常生活】
- Kengkang:玄関
- Dengua:電話
- Daiksang:大工さん
- Bento:弁当
- Habras:歯ブラシ
- Kutsibeni:口紅
- Dhisiobing:一升瓶
- Sidosia:自動車
【人の様子】
- Auateter:慌てている
- Bakanister:馬鹿にしている
- Skarister:しっかりしている
- Zurui:ずるい
- Kets:ケチ
- Odebuu:おデブ
- Siuarake:シワだらけ
人物評価の形容詞がたくさん残っているのが面白いですね。
やたらディテールも細かくて、語を眺めているだけで当時の日本人とパラオ人との交流場面が浮かび上がってくる感じがします。
委任統治の終わりとその後
しかし日本のパラオ統治も、それほど長くは続きませんでした。
1939年に始まった第二次世界大戦が、太平洋戦争を経て1945年に終結。
日本はここで敗戦国となり、やはり植民地の支配権を失うこととなったのです。
ファシズム勢力であるドイツ・イタリア・日本などの「枢軸国」の侵略に対し、アメリカ・ソ連・イギリス などによる「連合国」が反発して生じた、世界各国を巻き込んでの大規模な戦争。
アメリカの原爆投下とソ連の宣戦布告を受けて、日本の無条件降伏で終結した。
その後は代わってアメリカがパラオの統治を引き受けます。
パラオが完全に独立国家となる1994年までのおよそ50年間にわたって、今度は英語教育が徹底されることとなりました。
対して日本の統治はというと、1918年から1945年までの30年足らずでした。
しかしそれでも、まだインフラが整っていなかった当時のパラオの経済や暮らしの発展をけん引してきたインパクトは大きかったのでしょう。
アメリカの管理下においてもなお、すでに浸透していた日本語や日本文化の影響はその後もパラオに根強く残り続けました。
少なくとも、1982年制定のアンガウル州憲法に「Japanese」の記載がのぼるくらいには。
なぜアンガウル州だけが日本語を「公用語」として規定するまでに至ったか、その正確な経緯は定かではありませんが、アンガウル島に残留した日本人が多かったのがその理由の一つとして考えられます。
アンガウル島にはリン鉱石が採掘できる貴重な鉱脈と運搬設備があったため、戦争が終わってからも10年ほどは相変わらずたくさんの日本人労働者が住み続けていたのです。
加えて地理的に、アンガウル島が本土から遠く海を隔てた離島だったのも影響しているかもしれません。
つまり、国全体がアメリカ文化に移行していく中でも比較的その圧力を受けにくかったから。
こうした事情があったので、日本語との結びつきを強く残しやすい環境が整っていたのだとも考えられそうです。
私たちの関係性はこれからも
というわけで今回はパラオと日本の歴史から、世界で唯一日本語を公用語に定めている州がパラオにあることの謎について見てきました。
- 第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制において、パラオを含む南洋一帯は日本が委任統治していた
- 現地の日本人増加と日本語教育の強化により、パラオ人の日本語使用と日本語由来のパラオ語使用が広まった
- その後も特にアンガウル島では日本語との結びつきが強く残り、独立の過程で制定した憲法で正式に公用語となった
現代ではあまり意識することのない、パラオと日本の意外なつながりがあったのでした。
ちなみに今アンガウル島に訪れるなら、グアムなどを経由してコロールまでフライトし、そこからは週に1度だけ出る定期船に乗るか、あるいはボートやセスナをチャーターするしかありません。
日本からのアクセスは良いとは言えないですね。
時代がくだって、物理的にも精神的にもつながりがいくらか薄れてしまったアンガウル州と日本。
戦争体験者がますます減っていく今後は、その関係性を知る人はさらに少なくなることでしょう。
しかし、アンガウル州憲法が日本語を公用語として定めている限りは大丈夫。
かつて多くの日本人がそこに暮らしていたことが、また多くのパラオ人との交流が確かにそこで存在していたことが、現在進行形の尊い証拠として残り続けているのです。
パラオへ旅行に行くと思わぬタイミングで日本の痕跡を感じられそうなので、リゾート満喫にプラスしてそういう視点で楽しむのもアリですね。