人類というのは昔から、悪人のウソを見破るための仕組みを模索してきたようです。
世界には時代や地域を超えて多様な文化がありますが、面白いことにその風習として、「ウソをついているかどうかを神様に判定してもらう儀式」という共通のフォーマットが見られることがあるんですね。
こういったタイプの儀式のことを、神明裁判(しんめいさいばん)といいます。
この記事では、
- 人のウソを暴く手段の今と昔
- 世界各地に見られる神明裁判の例
- 神明裁判が有効に機能するロジック
についてまとめています。
一見すると非合理的な儀式ですが、あながちそうとも言いきれない側面もあるんですよ。
ウソをつくこと暴くこと
いつの世も、人間社会には揉め事・イザコザがつきものです。
そして争いが起きれば、誰かがどうにかして仲裁しないといけませんね。
悪事を野放しにしていては、秩序というものが保てません。
社会を安定して機能させるためには、刑罰というものが必要不可欠です。
悪いことをしたヤツには制裁を。
これはあらゆるコミュニティにおいてかなり普遍的に見られる取り決めと言えるでしょう。
人間はウソをつく
じゃあ、悪いことをしたヤツをいったいどのように特定するのか。
もし現行犯逮捕であれば話は簡単です。
捕らえられた人間をそのまま処罰すればいいだけですからね。
しかし、そうでない場合はどうでしょう。
たとえば誰かが殺されたとして、状況証拠だけでは犯人を特定できない場合。
仮にぶっちぎりでめちゃくちゃ怪しいヤツがいたとしても、彼が本当に悪事を働いたのかを確認するのは困難です。
なぜなら、人間は自分の身を守るためにウソをつく生き物。
彼に直接問いただしたところで、間違いなく真実を隠すでしょう。
本人しか知らない情報は、本人が言わなければわからない。
ただ「何も知らない」と言い張ればいい。
そんな中で第三者が、客観的に真実を見極めて人を裁くというのは、とても難しいことなんですね。
「こいつはウソをついている!」と主張するための、証拠としての「なにか」が必要となってきます。
ウソ発見器・ポリグラフ
その証拠としての「なにか」を生理反応に求めたのが、いわゆる今のウソ発見器として私たちがイメージするポリグラフという装置です。
ポリグラフは対象者の血圧や呼吸、心拍数といった生理的なデータを記録する仕組みになっていて、その変化を観察することで分析を行います。
検査者は、基本的にはどうでもいいダミーの質問をしながら、被疑者の平常時の生理反応の数値を得つつ、たまーにこっそり重要な質問を混ぜてみたりする。
被疑者がある特定の質問に対して「何も知りません」と答えたとき、心拍数がやたらと上昇したとしましょう。
そうすると、
- 実はその質問には犯人にしか知り得ないはずの重要な情報(凶器の種類など)が含まれていた
- 被疑者がそのタイミングで反応を示したのは、その情報について何か知っていたからだ
- 「何も知りません」という発言はウソだ!
といった具合に推論を展開できるわけです。
(なので正確には「ウソをついているか」というより「知っているか」をテストするのがポリグラフです。)
現代社会においてポリグラフでの測定結果は、実際に法廷で裁判上の証拠として使われることもあるものの、もちろん絶対的に強力な証拠というわけではありません。
生体反応というのは体調や心理状態によって大きく左右されてしまうし、最終的には検知された数値をヒトが「解釈」することになるのだから、検査者によるバイアスが影響する可能性も十分に考えられます。
結局のところ「人がウソをついているかどうか」を100%言い当てるなんてなかなかできるものではないんですね。
神がウソを見破る「神明裁判」
さて、それでは本題の神明裁判(しんめいさいばん)について見ていきましょう。
ウソをついていることを主張するためには、証拠としての「なにか」が必要。
現代のポリグラフはそれを生理反応に求めたのでした。
一方で古の人々は、しばしば神様の意志というものに証拠を見出してきました。
それが神明裁判。神の名をもって真偽を明らかにするための裁判行為です。
たとえば下の絵画をご覧ください。
15世紀に描かれた『皇帝オットーの裁判』という作品の一部です。
中央やや左に膝をつく女性は、冤罪で処刑された夫の首を抱いており、実はまさにいま神明裁判を受けているところ。
「私たちは正真正銘の無実なんです!ウソじゃありません!」と、皇帝に直訴している状況が描かれています。
彼女の左手に握られているのは、アツアツに焼かれたの鉄の棒。
想像するだけでめちゃくちゃ熱そうです。周囲の人々も若干引いてますね。
裁判の結果は、このあとの手の状態を見て決まります。
はい、とてもシンプルですね。
すべてを見通す神様は、常に正しい者の味方をしてくれるはず。
その神様の意志を確かめるために、神のご加護がなければタダでは済まないような過酷な試練に挑む。
神明裁判はこういった感じの儀式です。
ちなみにこの絵画に描かれた裁判では妻である女性側が勝訴し、夫の無実を証明したようです。
こういった神明裁判のフォーマットは、世界各地に様々な例を見ることができます。
そのうちのいくつか、面白いものをピックアップしてみましょう。
聖餐神判(キリスト教世界)
聖餐神判(せいさんしんぱん)、あるいは聖餐審(せいさんしん)は、大きめにちぎったパンなどのかけらを上手に飲み込めるかどうかで真偽を決める裁判です。
主に中世ヨーロッパのキリスト教文化圏において行われていたようです。
さっきのアツアツの鉄のやつと比べると、非常にお手軽ですね。
パンが一切れあれば5秒で裁判ができます。
なんだか宴会芸のようにも見えますが、キリスト教においてパンは神聖なアイテムの一つであり、これを体内に取り入れる行為というのはかなり特別な意味があったのでしょう。
「聖餐(せいさん)」という語が使われていることからも、その重みが伺えます。
イエス・キリストの最後の晩餐のこと。またそれを再現してパンとワインを摂る儀式、ミサのこと。
パンはキリストの肉体、ぶどう酒はキリストの血の象徴として神聖視される。
カラバル豆(アフリカ西部)
アフリカ大陸西岸・現ナイジェリアのカラバル地方に生育するカラバル豆は、別名「裁きの豆」とも呼ばれます。
その異名はまさに、この地域でカラバル豆が長らく神明裁判のために使われてきた歴史に由来しています。
このカラバル豆、実はフィゾスチグミンという毒を含んでいるんですね。
その裁判は、カラバル豆を摂取して死ぬかどうかで真偽を決めるものでした。
毒性をもつ豆であることは周知の事実だったのでしょうから、この儀式に臨むには相当な恐怖が想像できます。
カラバル豆を生のまま食べるほか、熱湯でコトコト煮出して作った毒汁を飲むケースもあったようです。
ちなみに余談ですが、中島らもの小説『ガダラの豚』はアフリカの部族社会や民族宗教を題材とした長編作品で、その中でもカラバル豆による神明裁判の話がチラッと言及されています。
呪術とか民間伝承とか、そういう系統の話が好きな方はぜひどうぞ。
盟神探湯(日本)
最後に、「盟神探湯(くかたち)」。
日本の神明裁判としてはおそらく一番有名なのではないでしょうか。
沸騰させた熱湯の中に素手を突っ込んでヤケドするかどうかで真偽を決める裁判です。
古代日本において、天皇の命により盟神探湯がたびたび行われたことが、「古事記」や「日本書紀」の中で語られています。
高校日本史の教科書でも大体「盟神探湯」は重要用語になっていますね。
「くか」とは、けがれ・罪のこと。「たち」とは、断ち切るということ。
「くかたち=断罪の儀式」といった感じでしょうか。
ちなみに室町時代の頃にもほぼ同じ方式の神明裁判の記録が見られ、こちらは湯起請(ゆぎしょう)と言います。
現代日本においても、神社において宮司さんや巫女さんが大釜の熱湯に笹の束を突っ込んで、それを振り回してミスト状のお湯を全身に浴びるという神事が行われることがあります。
これは「探湯式(たんとうしき)」「探湯の儀(たんとうのぎ)」と呼ばれ、まさに古代の盟神探湯に由来しているようです。
まあさすがに素手をそのまま突っ込むわけにはいきませんが、こういったマイルドな伝統行事の形で、かつての日本の神明裁判の歴史が今にまで引き継がれているのですね。
神明裁判の中にある合理性
以上、かつて様々な文化の中で行われてきた神明裁判の例をいくつかご紹介しました。
- 中世ヨーロッパの聖餐神判
- 西アフリカ原住民のカラバル豆
- 古代日本の盟神探湯
これらを見てきて、
「昔の人は科学の知識がないから、運に任せて適当やってたんだね(笑)」
という印象をもった方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、一笑に付して終わらせるだけではもったいない。
神明裁判の儀式を取り行うことには合理的な一面が確かにあって、当時の社会において重要な役割を果していたのです。
罪やウソを見抜く
神明裁判はときとして、実際に被疑者の有罪無罪をある程度正しく判定できていたとされています。
というのは、儀式に挑む者の心理状態が裁判結果を大きく左右するからです。
具体的には恐怖とか罪悪感とか、そういうプレッシャーですね。
「裁きの豆」ことカラバル豆は、その典型的な例といえるでしょう。
カラバル豆に含まれるフィゾスチグミンの毒は、一度に大量摂取すると嘔吐を引き起こす中毒作用があります。
だから短時間で勢いよく摂取した場合には、急性中毒の症状で嘔吐して、胃の中の毒素を早めに吐き出してしまえる可能性が高い。
自身の潔白を確信している善良な人間は、カラバル豆も自信をもってひといきに食べきる傾向にあり、そのため助かる確率も大きくなります。
一方で、なにかウソをついているとか罪の意識がある人間は、裁かれることへの恐怖心から自然と食べきるまでのスピードが落ちるかもしれません。
そうすると、十分な中毒症状に至らないまま致死量の毒素を体内に吸収してしまい、かえって命を落としてしまうわけです。
もちろんすべての神明裁判に同じ理屈が適用できるわけではありませんが、ビビりながら中途半端にやるよりも一気にやってしまったほうが成功率が高いというのは、危険なチャレンジにおいて結構共通していそうです。
逆説的ではありますが、その意味で神明裁判には本当に罪やウソを見抜く力があったのです。
自白を促す
また神明裁判にかけられるという状況それ自体によって、罪を犯した人間の自白が引き出される効果もありました。
神明裁判の儀式は大抵めちゃくちゃハードな内容なので、結果がどうとか以前に、そもそもできればやりたくないのです。
裁判で苦しい思いをして有罪判決を受けるくらいなら、いっそ始めから正直に自白してしまおうと考える人も多いでしょう。
為政者にとって、神明裁判をチラつかせて自白を促すのは有効な手段でした。
主に次のようなメリットが得られるからですね。
- 処罰が正当なものだと主張できる
- 裁判の手続きにかける時間や費用を節約できる
- そもそもの犯罪行為の抑止につながる
最後の犯罪行為の抑止については、「日本書紀」における盟神探湯に関する記述からも見て取れます。
ヤマト政権下において、氏姓制度が乱れに乱れて身分詐称が横行していたときに、ウソの名前を見破るための仕組みとして盟神探湯が取り入れられたらしいんですね。
このとき、「怪しいヤツは盟神探湯をやるからね!」という朝廷の呼びかけそれ自体が抑止力として作用しました。
豪族たちは熱湯に手を突っ込むなんて絶対にやりたくないので、裁判自体への恐れから詐称する者が減り、氏姓制度は安定へと向かっていったわけです。
支配者の権力を強固にする
これはさらに政治色の強い一面になりますが、神明裁判は権力をアピールする場としても機能しました。
神明裁判の儀式を執り行うというのは、神の意志という絶対的な根拠のもとに、だれにも反論できない最終決定を下す行為です。
つまり、王とか皇帝といった支配者が正式に裁判の日程や場所や手続きをプロデュースしていく過程は、いわば自身が神の権威を身につけるような効力があるわけです。
歴史上のいたるところで聖職者・僧侶が政治的な力を握っていたのには、まさにこういった側面が大きく影響しているでしょう。
逆らおうとする者、怪しい者、気に入らない者がいれば、片っ端から危険な神明裁判にかけてやればいい。
指名された者はその時点で、死または重大な後遺症を覚悟しなくてはなりません。
こうして権力者はその地位をさらに強固にすることができます。
誰も神様に文句が言えない以上、神明裁判の儀式は正統で強力な粛清の手段となるのですね。
ウソ発見器のこれまでとこれから
というわけで今回は、世界に広く見られる神明裁判の歴史とその合理性について見てきました。
神明裁判は、
- 罪やウソを見抜く機能
- 自白を促す機能
- 権力を強固にする機能
があることから、人間社会において重要な役割を担っていた。
そしてその根幹には、
「神様の言うことはー?」「ぜったーい!」
みたいな、人々の中に浸透する宗教的な権威というものが大前提として存在していたんですね。
現代となっては昔のような儀式的な神明裁判はほとんど見られなくなりましたが、代わって台頭しているポリグラフもまた、実験科学という別の権威を前提として受け入れられている技術であることに気が付きます。
近頃の大手民間企業では、社内の不正行為を取り締まるために、ポリグラフのようなウソ発見器を保有して定期的な検査を実施する会社なんかもあるようです。
権威に基づき、ウソを暴く。
ウソを暴くための場を設けることで、不正自体を予防する。
私たち人類はこれでもこれからも、本質的にはそれほど変わらない仕組みで社会の安定を目指していくのかもしれません。
次世代のウソ発見器は何でしょうね。
ビッグデータをもとにしたAI判定システムとか?