私たちは普段1年の周期を12月にわけて、さらにそれを30日ないし31日にわけて、暦(こよみ)というものを運用しています。
しかし伝統行事などではしばしば「旧暦(きゅうれき)」の考え方が登場して、いつものカレンダーとは微妙にずれた日付が出てくることがありますよね。
たとえば七夕(たなばた)は「7月7日」とするのが一般的ですが、これはもともと「旧暦の7月7日」のことを指しています。
旧暦の7月7日を現代の暦になおせば、だいたい8月中旬くらい。
まだ梅雨も明けていない7月7日、わざわざ天体観測には向かない時期にお星様へ願いを託さないといけないのは、旧暦と新暦のずれによるものなのです。
地域によっては「伝統的七夕」といって、8月に七夕祭りをもってくるところもあるようですね。
ほかにもたとえば、奈良の東大寺・二月堂(にがつどう)で毎年行われる「修二会(しゅにえ)」という法要。
その名前からどう考えても2月にやりそうなものですが、実際は3月1日~14日にかけて実施されます。
これもやっぱり同様に旧暦の2月が、現代の暦になおすと3月くらいに相当するからです。
奈良時代から続く仏教の伝統行事として、新年の平安や豊穣を祈るもの。
東大寺の修二会では、香水をくむ「お水取り」や火のついた松明を振り回す「お松明」が有名。
こういった例は、探してみると結構たくさんあります。
それもそのはずで、私たちがグレゴリオ暦と呼ばれる新暦を採用したのは、1872年と結構最近なんですね。
改暦以前の日本では、長きにわたって全然違う仕組みで暦を運用してきました。
昔ながらの旧暦は、それが「太陰太陽暦」である点で今のカレンダーの仕組みとは根本的に違っているのです。
この記事では、
- 人類史上の暦法の分類
- 太陽暦と太陰暦、太陰太陽暦の仕組み
- 太陰暦を補正する「二十四節気」と「閏月」
についてまとめています。
「今の暦でだいたい〇月~〇月くらい」みたいなぼんやりした言い方しかできない理由も、旧暦の仕組みが分かれば納得できます。
暦法の分類
まず前提として、私たちが一般に「新暦」「旧暦」と呼んでいるものの立ち位置を確認してみましょう。
新暦とは、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世(1502-1585)が始めた「グレゴリオ暦」のこと。
旧暦とはそれ以前に日本で使っていた暦、中でも特に最近まで運用されていた「天保暦」のことを主に指します。
日本では1872年に、「明治改暦」によって天保暦からグレゴリオ暦への切り替えが行われました。
これを機に徐々に浸透していったカレンダーの感覚が、今にまで続いているわけです。
明治政府が日本の近代化を進める流れの中で、西洋で普及していたグレゴリオ暦を導入した措置。
改暦実施まで1か月足らずの急な発表により断行され、国内では大きな混乱と経済的影響があった。
そして暦法には大きく「太陽暦(たいようれき)」と「太陰暦(たいいんれき)」の二種類のアプローチがあります。
- 太陽暦:太陽の運行をもとにした暦
- 太陰暦:月の運行をもとにした暦
太陰暦のほうはさらに「純粋太陰暦」と「太陰太陽暦」に分かれます。
- 純粋太陰暦:月の運行だけをもとにした暦
- 太陰太陽暦:月の運行をベースに、太陽の運行も取り入れた暦
今私たちが使っている新暦=グレゴリオ暦は、太陽暦。
それ以前の旧暦≒天保暦は、太陰太陽暦に区分されます。
両者はそもそもの分類においてまったくの別物なんですね。
以上が暦というものの全体的な概観、そして新暦や旧暦の位置づけについてでした。
ここからは、太陽暦・太陰暦・太陰太陽暦が具体的にどんな仕組みでカレンダーを運用しているのか、個別に詳しく見ていきましょう。
ちなみに天保暦以前にも暦のルール変更は何度もありましたが、日本史上で採用してきた旧暦はすべて「太陰太陽暦」となっています。
太陽をもとにした太陽暦
太陽暦とは、
地球が太陽の周りを1周するのにかかる日数を「1年」
と定める暦のことです。
現代に生きる私たちとしては「当たり前じゃん」という感じのルールですね。
太陽暦の起源は古代エジプトにまでさかのぼります。
エジプトでは大昔から毎年夏に発生するナイル川の氾濫に悩まされていたので、その時期を特定するための目安が必要だったのです。
ただ悩ましいのは、約365.25日という微妙な端数のある周期をどう調整するかという点。
1年を365日とするだけでは、年を重ねるごとにカレンダーが実際の太陽の運行とずれてしまいます。
古代ローマの時代には、 ユリウス・カエサル(前100頃-前44) が「ユリウス暦」という太陽暦を導入し、このときに「4年に1度閏年(うるうどし)を差し込んでずれを補正する」という方式をとりました。
それをさらに改良したのが現在のグレゴリオ暦というわけです。
共和制ローマ末期の将軍・政務官で、古代ローマ最大の英雄として有名。
『ガリア戦記』などの著作を残し、後に内戦を経て独裁官としてローマの改革を進めたが、共和派によって暗殺された。
ちなみに「地球が太陽の周りを1周する」という表現は、17世紀以降に地動説が科学的に主流となったからこその言い回しです。
天動説がまだまだ幅を利かせていた頃の太陽暦においては、あくまで地球からみた見かけ上の太陽の動き(=黄道:こうどう)をもとに暦を作成していました。
たとえば北半球において、地平線から昇ってきた太陽は、夏には空の高い位置を通ります。
それが秋になり冬になるにつれて高度がどんどん下がっていって、冬至には最も低い位置へ。
そして春にかけてまた高度が上がっていき、次の夏には最も高い位置に戻ってくる。
こうした黄道のサイクルは、季節の巡り、日照時間の変動とも密接にかかわっています。
農耕とともに歩んできた人類にとって、太陽暦は暮らしに沿った合理的な仕組みと言えそうですね。
月をもとにした太陰暦
一方で太陰暦は、
月の満ち欠けの1周期を「1か月」
と定めています。
太陰暦の起源は太陽暦よりさらに古いとされ、古代メソポタミアのシュメール人やバビロニア人によって利用されていました。
おそらく肉眼でもその変化が分かりやすく、直感的な指標としてわかりやすかったのでしょう。
月の満ち欠けとは、地球から見た月の形の変化(=月相:げっそう)のことを言っています。
地球の周りを月が公転することで、太陽光のあたる角度に応じて周期的に形が変わって見えるわけですね。
月齢の目安 | 月相の名称 | 別名 |
---|---|---|
0 | 新月(しんげつ) | 朔(さく) |
7 | 上弦(じょうげん) | 弦(げん) |
15 | 満月(まんげつ) | 望(ぼう) |
22 | 下弦(かげん) | 弦(げん) |
30(0) | 新月(しんげつ) | 朔(さく) |
新月の日から、だんだんと月が満ちて、満月以降はまた欠けていって、次の新月へ。
この1巡を朔望月(さくぼうげつ)といって、日数にして約29.5日の周期にあたります。
ということで、1か月が29日の月と30日の月とを繰り返していくのが太陰暦のカレンダーです。
ちなみに少しややこしいのですが、「1か月(=朔望月)」は「月の公転周期」とはまた微妙に違います。
月の公転周期は約27.3日なのですが、その間に地球自体が太陽の周りを公転して位置関係が変わってしまうので、新月に戻るには1周+α の公転が必要なのです。
[画像]
「約29.5日」の周期はあくまで地球視点の主観であって、天文学的には特に意味のあるサイクルではないということですね。
ところで太陰暦は月の満ち欠けに従っているので、「夜の明るさ」とか「潮の満ち引き」といった月由来の自然現象と連動しています。
そのあたりの条件を暦からが読めることは、たとえば沿岸漁業などにおいては役立ちそうです。
しかしそんなことはどうでも良くなるくらい、太陰暦には致命的な弱点があるのです。
それは、季節との連動が取れないこと。
29.5日 × 12か月 = 354日。
約365日の周期には11日ほど足りていません。
毎年11日ずつ、季節の到来時期と暦とのずれが蓄積していってしまうんですね。
さすがにこれでは不便すぎるという問題意識が、後の太陰太陽暦の開発へとつながっていきました。
太陰太陽暦の仕組み
先ほど見てきた太陰暦は、特に純粋太陰暦と呼ばれるものです。
「純粋に月の満ち欠けだけを基準として暦を運用する方式」ということですね。
月の形というわかりやすい指標があるのが魅力ですが、やっぱり季節の巡りや日照時間の変動をカレンダーに組み込めない欠点は大きすぎたようです。
人類史上で使用されてきた純粋太陰暦はほぼ「ヒジュラ暦」というイスラム圏の伝統的な暦だけであって、それ以外の太陰暦は総じて太陽の運行を太陰暦に組み込んだハイブリッド型の暦へと移行していきました。
そのハイブリッド型というのが、日本史上でもほとんどの時代で採用されていた暦法「太陰太陽暦」です。
以下、いわゆる「旧暦」の天保暦を特に想定して、太陰太陽暦の仕組みをご紹介します。
季節を固定する「二十四節気」
太陰暦に「太陽の運行」という概念を取り入れるためのシステムが、二十四節気(にじゅうしせっき)です。
これは紀元前4世紀ごろに中国で発明されたもので、それが後に日本にも伝来してきました。
二十四節季は、地球が太陽の周りを1周する公転軌道を24等分して、それぞれの区間に名前をつけたもの。
いわば「季節のものさし」のような役割を担っています。
ご覧のように、太陽の位置と連動した12の節気と12の中気を順に巡っていきます。
二十四節気の把握はやはり、黄道のサイクルを観測することで特定します。
カレンダーを運用するうえで特に重要となるのは、「中気」のほうです。
太陰太陽暦では、
「朔望月のうちでどの中気が到来したか」によって「その月が何月か」を決定する
という仕組みを採用します。
つまり、
- その月に「雨水」が含まれていれば1月
- その月に「夏至」が含まれていれば5月
- その月に「秋分」が含まれていれば8月
といった具合に、二十四節気に従って月々の進行を制御するわけです。
たとえば純粋太陰暦だと、ある年の1月が冬でも数年後の1月は春、さらに数年後には夏へと移っていってしまいます。
しかし太陰太陽暦では、ある年の1月が冬なら、翌年も十年後も百年後もだいたい同じ時期の冬なのです。
中気が楔(くさび)として機能するおかげで、29.5日以上の季節のずれが生じることがないようになっているんですね。
あれ?たしかにずれは補正されてるけど、途中で中気のない月が出てきちゃってますね…。
スキマを埋める「閏月」
中気と中気の間隔は 365÷12≒30.4日。
朔望月の周期は29.5日。
必然的に、その月のうちで中気が到来する日は0.9日ずつ遅れていきます。
そしてタイミングによっては、どの中気も含まれない月が発生してしまうことになるのです。
まあ太陰暦は365日の周期に11日も足りないのがそもそもの問題だったわけなので、当然の現象ですよね。
これを解決するための措置が、「閏月(うるうづき)」のシステムです。
閏月とは、
中気のない月ではその直前の月をもう一度くりかえす
という臨時ルール。
閏月があった年は、1年が13か月になるということです。
こうして「二十四節気」と「閏月」という補正システムを駆使しながら、なんとか太陰暦と季節感との両立を図ったのが、太陰太陽暦なのでした。
旧暦ってこんなに複雑な仕組みで運用してたんですね。
来年用のカレンダーを作っておくのも結構大変そうだなぁ。
暦は文化の礎である
というわけで今回は、太陽暦・太陰暦・太陰太陽暦の特徴をふまえて、旧暦の仕組みについて学んできました。
- 太陽暦とは、地球が太陽の周りを1周するのにかかる日数を「1年」とする暦
→ グレゴリオ暦(新暦)で採用している
→ 季節の巡りや日照時間の変化と連動するので、農耕や季節依存の生活に合っている - 太陰暦とは、月の満ち欠けの1周期を「1か月」とする暦
→ 直感的にわかりやすいが、季節と連動していないのが非常に不便 - 太陰太陽暦とは、太陰暦をベースにしつつ太陽の運行に基づく調整を行う暦
→ 天保暦(旧暦)で採用している
→ 「二十四節気」「閏月」を導入することで季節との同期をある程度実現できる
こうして比較してみると、グレゴリオ暦をはじめとする太陽暦が非常にシンプルかつ合理的な仕組みをもっていることが際立って見えます。
私たちがすでにグレゴリオ暦を前提とした社会に生きているからこそのバイアスもあるかもしれませんが、まあそれを差し引いてもやっぱり太陽暦の安定感はダントツですよね。
季節の変化と高精度で一致しているうえ、閏年の調整も4年に1日程度で済むわけですから。
長期的な計画も立てやすく、農業にも商業活動にも政治のうえでも合理的です。
実際、現在の国連加盟国においてほとんどすべての国が太陽暦を公式に採用しています。
グローバル化が進んだ今、他国と暦が全く違うというのは外交上も経済取引においても不便でしょうしね。
とはいえやはり、「暦として優れているから」という理由だけで直ちに太陽暦に完全シフト!とはならないのが、文化的存在としての人間というものです。
日本が明治まで太陽暦を取り入れてこなかった理由には、おそらく太陰太陽暦の仕組み自体のメリットだけでなくて、これまで太陰太陽暦の礎のうえに積み上げられてきた膨大な歴史の重みが大きく影響していたように思います。
暦は人類にとって単に時間をわかりやすく測るためだけのものではなくて、共同体が通時的に文化を形成していくための核として欠かせないアイデンティティのひとつなのでしょう。
私たち現代人がいまだに「旧暦」とよく耳にするのは多分、そういう伝統の影響力を示すひとつの証拠です。
七夕や修二会やその他古くから伝わる様々な年中行事は、「その時期にそれをする」というただそれだけで、日付以上の情報を伝えていく力があるのです。
ちなみに私の推し節気は、旧2月の「啓蟄(けいちつ)」。
「蟄」の字が見覚えなさすぎてカッコいいからです。