
「初めて世界一周を成し遂げた人物は?」と聞かれたら、「マゼラン!」と答えるのが正解です。
しかし、厳密にはマゼラン自身は世界一周をしていません。
本当に人類初となったのは、彼の奴隷だったのではないか、という説があるのです。
人類初の世界一周でおなじみフェルディナンド・マゼラン(1480-1521)といえば、大航海時代のもっとも有名なスターのひとりである。
マゼラン率いる船団がスペインを出発してから再びもとの地へ帰ってくるまでの期間は、なんとおよそ3年間にも及んだ。
もともと5隻の船が海に出た中で、無事に戻ったのはたった1隻。
270人ほどいたメンバーのうち生存者は18人のみという、想像を絶するような過酷な航海だったらしい。
長い旅路の末にようやくスペインへ帰りついたときの感動といったら、それはもう絶大なものだったに違いない。
しかし、実はこれより前にある男がひっそりと「人類初の世界一周」を達成していた可能性があるのだ。
マゼランが世界一周に旅立つまで
武力の男、マゼラン
マゼランがどのような人物だったか、というところから見ていこう。
彼はもともと、ポルトガルの宮廷につかえる軍人だった。

当時のポルトガルはというと、同国の航海者ヴァスコ・ダ・ガマ(1460頃-1524)がインドまでの新航路を発見したことを受けて、インド洋一帯の覇権を握るべく次々と艦隊をアジア方面に送り込んでいた。
好戦的なタイプのマゼランは、こうした艦隊に乗って遠征へ出ては、戦いの中でキャリアを積んでいったのだった。
やがて彼はマラッカ王国(今のマレーシアのあたり)を制圧することに成功するが、このとき現地にて、専属の奴隷を1人ゲットする。
その奴隷がエンリケという男だった。
そして彼ものちに、マゼランと一緒に世界一周の航海へと旅立つこととなる。
香辛料を求めていざ冒険へ
30代半ばとなったマゼランは、ひょんなことからポルトガル王と揉めて気まずくなったので、ポルトガルの宮廷を去ってしまう。
そこでマゼランを登用したのが、お隣のスペインだった。
当時スペインは、今のインドネシア東部にある「香料諸島」と呼ばれる島々へ向けてなんとか交易ルート伸ばせないかと目をつけていた。
香料諸島では当時のヨーロッパでとても価値があった「香辛料」が豊富に入手できるといわれていたからである。

マゼランはスペイン王に謁見して、
「私が西回りルートで海を渡って香料諸島へ行ってきますよ!」
「東回りをしているのポルトガル連中よりも低コストで香辛料をゲットできますよ!」
と、新しい航路の開拓について熱弁したのだった。
(このときマゼランはアメリカ大陸の向こうに広大な太平洋が広がっていることなど想定しておらず、「低コストで」という説明は実は正しくないのだが。)
こうしてマゼランはスペインによる強大なバックアップを受けて、ついに西回りルートの開拓という偉業に乗り出した。
世界一周の旅への船出である。
フィリピンでの大事件
フィリピン上陸
マゼラン率いる一行は、長い旅路の末にフィリピンへとたどり着いた。
ちなみにこのとき出航からすでに1年半が経過しており、船員の身体もメンタルもボロボロだった。
なにせ、全く想定していなかった広大な太平洋のど真ん中を、漂流に近い形で何か月もさまよってきたのである。
しかしフィリピンの民は幸いにも結構フレンドリーで、マゼランたちは食糧を調達することができただけでなく、ついでにキリスト教の布教活動も進めることができた。
特にセブ島では、島の王と親しくなったために布教もうまくいき、多くのフィリピン人たちを改宗させることに成功している。
夢半ばにしてマゼラン死す
フィリピンでイケイケのマゼランは、キリスト教への改宗に応じない島の王に対して武力をチラつかせて脅すようになった。
これに断固として抵抗したのが、マクタン島のラプ=ラプという王だった。
言って分からないのなら、とマゼランはマクタン島を攻めに行く。
このときマゼラン側の兵士49人に対して、マクタン島民は1500人もの大軍で迎え撃ってくる。

<出典:Wikipedia(by Carl Frances Morano Diaman)>
マゼランは生粋の軍人気質であるから、
「ここで引くのは男じゃない!」
と果敢にも立ち向かっていくのだった。
しかし、やはり30倍もの戦力差は大きかった。
数の攻めに押され、マゼランはここであえなく戦死してしまうのである。
世界一周したのはマゼランの部下たち
マゼランがフィリピンで戦死してしまっているので、実際に世界一周を成し遂げたのは彼の船に乗っていた別の船員たちということになる。
マクタン島の戦いから命からがら逃げかえった一部の部下たちは、その後目的の香料諸島にもたどり着き、なんとか航海を続けてスペインへと帰ってきたのだ。
無事に世界一周を達成したメンバーはわずか18人。
そのうちの一人は航海の記録を毎日とり続けていたピガフェッタという男で、「人類初の世界一周の冒険録」が現代にまで詳細に伝わっているのは、彼の記述のおかげだといえる。
しかし、実はピガフェッタら18人よりも先に世界一周の偉業を達成していたかもしれない男が一人考えられる。
マゼランの奴隷として一緒に航海に出た、あの奴隷エンリケである。
エンリケ、世界一周してた説
主人を失ったエンリケ
エンリケはマゼランと共に航海へ同行しており、一行がフィリピンへたどり着いたときも、やはり同じ船に乗っていた。
フィリピンには一部マレー語を話す島民がいたので、もともとマレー語圏であるマラッカ出身のエンリケは通訳として大活躍していたのだ。
マゼランがセブ王と親睦を深め、キリスト教の布教を広められたのも、エンリケのマレー語によるコミュニケーションがあったからこそである。

<出典:Wikipedia(by abdullatif hamidin)>
しかしマクタン島の戦いが起こり、主人であるマゼランが死んでしまう。
実はマゼランは、生前に書き留めていた遺書の中で、
「自分が死んだらエンリケは開放する!生活費も遺産から出してあげて!」
と示していたのだった。
エンリケはマクタン島の戦いで負傷はしたもののなんとか生き延びていたので、これで晴れて自由の身となったわけだ。
ところが、マゼランに代わって船長となった指揮官は、
「マゼランがいなくなってもお前は奴隷だ!ダラダラするな!」
とエンリケを叱責し、再び通訳としてセブ島の王のもとへ使わせる。
かわいそうなエンリケ…。
フィリピンでの失踪
セブ島の王と対談し戻ってきたエンリケは船の幹部たちに、
「王があなた方を宴会に招待したいとおっしゃっています」
と伝えるのだが、実はこれは罠だった。
宴会に出席した20人あまりの幹部たちは、突如島民たちに取り囲まれ、そのほとんどが殺されてしまう。
ピガフェッタの推測によれば、多分これはエンリケがセブ島の王と共謀して、マゼランの遺言を無視した指揮官を計画的に殺害したのではないかといわれているが、これを確かめるすべはなかった。
なぜなら、この事件を境にエンリケはパッタリと姿を消してしまったからである。
その後の彼の行方は誰も知らない。
人類初の世界一周はエンリケだった?
エンリケはもともとはマレー語圏(マラッカ)にいたが、奴隷となってマゼランと共に西方のポルトガルへ渡り、そこからさらに西方に航海をしてマレー語圏(フィリピン)に帰ってきたことになる。
マレー語圏を一つの地域としてみなせば、エンリケはフィリピンに上陸した時点で世界一周を達成したとも言える。

もっとも、ご覧のとおりフィリピンからマラッカまでは少し距離があるから、
「いやいやこれだと世界一周したとは言えないでしょ」
との指摘は当然あるだろう。
私もそう思う。
しかし一方で、エンリケが文句ナシに人類初の世界一周達成者となっていてもおかしくない、2つの可能性が考えられるのである。
可能性1:エンリケはフィリピンで失踪したあと、自分の故郷へ帰っていた
ようやく自由を手にしたエンリケが生まれ故郷に戻ろうとすることは自然である。
(故郷がどこかはわからないが、マラッカの周辺だろうと思われる)
ピガフェッタら18人がスペインへ帰りつくまではおよそ半年間。
その前にエンリケがフィリピン人らの協力を借りて、マラッカまで渡っていた可能性も十分考えられる。
可能性2:エンリケは奴隷となる前に、すでにフィリピンへ来たことがあった
エンリケがマゼランの奴隷となったのは、およそ17歳くらいであるので、その前にフィリピンへ渡った経歴があっても不思議ではない。
もしそうならば、マゼランと共にフィリピンへたどり着いた時点で正真正銘の世界一周を達成したことになる。
エンリケ世界一周説には夢がある
エンリケが誰よりも早く世界一周を成し遂げていた可能性はあるものの、記録が残っていない以上はあくまで「ひとつの説」に過ぎない。
それでも、この説にはなにか大きなロマンを感じてしまう。
「人類史に残る偉業を達成したのは、あの有名なマゼランじゃなくて、実は名もない1人の奴隷だったんだよ!」
なんて、エピソードとしてすごく面白くないですか?
どうやらこの話を題材にしたドキュメンタリー映画もあるようだ。
興味のある方はどうぞチェックしてみてください。
□マゼランは航海の途中フィリピンで戦死したため、実際に世界一周を達成したのは彼の部下である船員たち
・記録を残していたピガフェッタら18人が帰還
□マゼランの奴隷だったエンリケが人類初の世界一周をしていたかもしれない
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