「桜の樹の下には死体が埋まっている」
このインパクトのあるフレーズには聞き覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
映画や小説など創作物においても引用されることの多い有名な一節です。
その出典となっているのが、今回ご紹介するこちらの作品。
大正~昭和期の作家・梶井基次郎(1901-1932) の代表作のひとつ、『桜の樹の下には』という短編小説です。
小説といっても2000字足らずの非常に短いもので、散文詩と捉えられることもあるようです。
サクッと読めてしまう分量ではあるのですが、この記事では『桜の樹の下には』の内容をさらに気軽にチェックできるよう、ざっくりとしたあらすじを簡単にまとめました。
ちょっぴりグロくて気持ち悪い表現もあるので、苦手な方はご注意ください。
『桜の樹の下には』のあらすじ
桜が見事に咲いている。
俺にはあの美しさが信じられない。不安でたまらない。
ああそうか、あの桜の樹の下には———。
小説の構成
まずこのお話の構成についてですが、特にストーリーというべきものはありません。
語り手である「俺」が「おまえ」に向かって延々と持論を展開していくセリフだけが、そのまま作品を構成しています。
桜の美しさの秘密がわかったと、嬉々として熱弁する「俺」。
その語りの内容を以下に要約しています。
ざっくり要約
桜の樹の下には死体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。
だって桜があんなに美しく咲くなんておかしいでしょ?
俺は桜の神秘的な美しさが信じられなくて最近めちゃくちゃ不安で落ち込んでたけど、今やっとわかったよ。
ほら、あの満開の桜のひとつひとつに死体が埋まっているのを想像してみてごらん。
馬の死体とか犬猫の死体とか人間の死体とか、みんな腐ってウジが湧いて、臭い液体をたらたら流していて。
そこに桜の根がタコの触手みたいに絡みついて、その液体を吸い上げて栄養にしてるから、だから桜はあんなに美しいんだね。
ああ、納得がいった。
これでようやく不安から自由になれた。
いやちょうどこの前さ、川を歩いてたら大量のウスバカゲロウの群れが空に飛んでくのを見たんだけどさ。
あいつらは一斉に成虫になって、そこで美しい結婚をするわけだよね。
でまたしばらく歩いてたら、今度は変な水たまりみたいなのがあって。
そこが石油でも流したみたいに光彩を放ってたんだけど、おまえそれ何だったと思う?
それね、何万匹ものウスバカゲロウの死体だったの。
死体が羽を重ねて隙間なく水に浮いて油みたいに。
あれは産卵を終えた虫たちの墓場だったんだね。
俺それ見たとき、すごいグッときちゃったなあ。
美しい生き物とか景色とか、ただそれだけじゃダメで、こういう惨劇が必要なんだよ。
そのバランスがあってはじめて、俺の心はなごんでくるんだよね。
ああ、桜の樹の下には死体が埋まっている!
美しさと惨劇の表裏一体
以上、ショートにまとめた『桜の樹の下には』でした。
美しい桜とグロテスクな腐乱死体を重ねることで、かろうじて心の平穏を得る語り手。
彼には「惨劇が必要」なのだと訴えます。
とにかく突飛で、狂気的な妄想ですね。
でもなぜかちょっとだけ納得してしまう謎の説得力も感じます。
ほら、色鮮やかな満開の桜を特に夜なんかに見ると、まさに ”妖(あや)しげ” といった言葉がぴったりくるような、この世のものではないような神秘性を帯びているじゃないですか。
美しいのだけど、どこか深入りしてはいけない雰囲気。
その正体の奥底が知れない感じ。
小説の語り手が言っていた「不安」というのも、まったくわからないでもない。
彼の内面には、美しいものの裏には必ず残忍でむごたらしいものもセットで存在すべしという観念が強くあるようでした。
それが異常ともいえるような熱量なので、語り全体に独特の緊張感が漂っています。
しかしよく考えてみれば、こういったどうにかバランスを取ろうとする感覚自体は、わりと人類が普遍的にもっている共通心理とも言えるかもしれません。
プラスがあればマイナスもなくちゃいけない、みたいな。
クラスに圧倒的にスタイルの良い美人がいれば、「あの子実はめっちゃ性格悪いらしいよ」と噂が立ちます。
大成功したお金持ちや有名人はしばしば「裏で違法行為や不倫をはたらいているんじゃないか」的な目で見られます。
これには嫉妬の感情も絡んでいるはずですが、きっとそれだけじゃなくて、そうじゃないと帳尻が合わない、バランスが取れていないみたいな、論理以前の本能的な感覚も影響していそうです。
この感覚はおそらく、時代や文化を超えて共有している一種のあるあるなのではないでしょうか。
陰と陽の共存
たとえば古代中国には、森羅万象を二つの対極で捉える陰陽思想がありました。
紀元前300年ごろ、諸子百家の時代です。
この世のあらゆるものを「陰」と「陽」の相反する二気に分類して事象を理解しようとする思想。
白と黒の勾玉を組み合わせたような「太極図」のシンボルでも有名。
天と地、光と闇、動と静、そして 生と死 ——。
それらは互いに表裏一体で、どちらかがなければもう片方も存在し得ない、という発想です。
太陽の光が降り注げば必ずどこかに日陰ができるように、生命の営みには必ず死がセットでついてくる。
それを産む両親の死、それが生きるために食べる別の生命の死、それ自身の死。
生き物はみな、おびただしい量の死体の山のうえで美しく命を燃やし、やがて自らもまた死体となって別の命を燃やすわけです。
ウスバカゲロウも、人間もそうですね。
エロスとタナトスの共存
また時と場所を異にして、西洋の心理学者・フロイト(1856-1939)は、人間にはエロスとタナトスという二つの相反する衝動がともに無意識の内に抑圧されていると説きました。
オーストリアの心理学者・精神科医。
精神分析の創始者として現代心理学の先駆けとなったほか、臨床場面に「無意識」の概念を導入して世に広めた功績で知られる。
エロスとは、生きる情動、美しい愛の情動。
そしてタナトスは、死へと向かう欲動です。
フロイトはこれら二つが表裏一体で、対立しつつも不可分なものであると捉えています。
人間の精神活動は、奥底にあるエロスとタナトスの本能が絡み合って表出してるものなんだよ、と。
私たちは生きているけれども、それはつまり、死を抱えていることとも同義である。
見回せば目に入る周囲の人間も、馬や犬猫も、生き生きと茂る植物も、みな内部に死の性質をあわせもっていて、だからこの世界の景色というのは無数の死で満ちているわけなのです。
なんだか少し気持ち悪くなってきました…。
桜の樹の下には
そんなことを考えていると、ますます『桜の樹の下には』で語られるようなグロテスクな妄想の数々も、あながち奇想天外な内容とも言い切れないように思えてきます。
生と死、美しさと惨劇。
人類は多分そういう相反する要素の二重性にずっと昔から関心を向けてきて、今を生きる私たちにまでその感覚を受け継いできているのかもしれません。
だからなんとなく、この小説にも無意識に魅かれて、謎の説得力を感じてしまう。
たしかにバランス取れてなきゃおかしいよね。
ただきれいなだけなんて信用できないよね、と。
西洋のことわざには、
No rose without a thorn.
(トゲのない薔薇はない)
といった言葉があります。
日本語でもよく似た言い回しをしますよね。
「きれいな薔薇にはトゲがある」。
じゃあ、きれいな桜には…?
死体が埋まっている!と熱弁されたら私はもう、そうとしか考えられなくなっちゃいそうです。