
心理学の世界で「クレバー・ハンス効果」の存在は有名です。
この名前の由来となったのは、驚くべき知能をもつ動物として大きな注目を浴びた1頭の馬でした。
19世紀末頃のドイツ・ベルリンに「ハンス」という名前の馬がいた。
ハンスには特殊な一芸があった。
飼い主であるオーステン氏が簡単な計算問題などを出すと、ハンスはその解答を蹄(ひずめ)で地面を打って答えてくれるのである。
ハンスは高度な知能をもつ賢馬として何度もショーを行い、人々を驚かせた。
ダーウィンが『種の起源』を発表して世界に衝撃を与えたのが1859年。
当時の人々は動物の進化についてただでさえ大きな関心を寄せていたところであり、そういう時世もあってハンスの能力は一層注目を浴びたのかもしれない。
しかし、ハンスは本当に計算ができるわけではなく、実はもっと単純な手段で答えを導き出していたのだった。
賢馬ハンスのショー
人の言葉を理解して計算をする?
ハンスがベルリンで人気者になったのは、次のようなショーを披露したからだ。
まず飼い主のオーステン氏がハンスに簡単な質問をする。
たとえば、
「ハンスよ、6マイナス4の答えは何になるか。」
といった感じ。
するとハンスは脚を上げ、蹄で地面を2回コツコツと鳴らして答えるのである。
もし6プラス4の答えを問えば、ちゃんと10回蹄を鳴らす。
人々がビックリしたのは、その計算能力もそうだが、なによりオーステン氏の言葉の意味を理解しているということについてだった。
ドイツ語の聞き取りができなければ、このように正確に問題に答えることはできないはずだ。
さらに驚くべきことに、紙に書かれた問題文を見せるだけでも、ハンスは正確に答えを示すことができた。
「言語の読解に加えて、四則演算までできる天才馬だ!」
ということで、ハンスのショーは大盛況だった。

専門家による調査
「いやいや、さすがに馬にそんなことできないでしょ」
と考えた専門家たちもいた。
大学教授や獣医師、サーカス団の団長にいたるまで、さまざまな専門知識をもったプロフェッショナルたちが集まって調査チームを結成し、ハンスのショーの謎を解こうとしたのだ。
ハンスの能力がニセだとすると、たとえば飼い主のオーステン氏がこっそり何らかの合図をハンスに送り、蹄を叩くべき回数を指示しているなどの可能性が考えられる。
しかし、調査チームが注意深くオーステン氏を観察しても、ハンスに何か合図を送る素振りは見られない。
それどころか、オーステン氏以外の人間がハンスに質問を投げかけるという実験をしてみても、それでもハンスは正しく答えを返すのだった。
結局この調査チームは、
「ハンスのショーには何のトリックも使われていない」
と報告することとなった。
賢馬ハンスの勝利である。
ハンスの能力の真相
賢馬ハンスは調査チームによるお墨付きも得て、ますますショーに精を出していた。
(オーステン氏は人気が出てからも、いつも完全無料でショーを公開していたらしい。)
ところが、専門家たちも調査をあきらめなかった。
大学の心理学者たちが中心となってさらなる追加検証を重ねに重ねた結果、 当初の調査チームの報告からおよそ3年後に、ようやくハンスの能力の真相が解明されたのだった。
実はハンスは、周囲の人間に表れる顔や体の動きの微妙な変化を読み取り、蹄を打ち終えるタイミングを判断していたのである。
質問者や観客たちは、ハンスの蹄を打つ回数が正解に近づくたびに、少しずつ体が緊張してきたり、前のめりになったりする。
そして正解の回数に達した瞬間に体の緊張は和らぎ、目が見開いたり、ハッと息を飲んだりする。
これらはどれも無意識な反応であり、人間が見ても気付かないくらいの小さな変化でしかない。
しかしハンスはこうした周囲の反応を敏感に察知して、
「あ、ここで蹄を止めればいいんだな」
という手がかりを得ていたのだ。
その証拠に、あらかじめ紙に書かれた問題文を誰も確認しないままハンスに見せたところ、ハンスは正解を示すことができず、ひたすら蹄を鳴らし続けていたという。
周囲の人間にも答えがわからない場合には当然なんの手がかりも得られないので、ハンスもどこで止めればいいか判断できないのである。
結局、言語が理解できて計算までやってのける天才馬など最初から存在しなかったということだ。
「なーんだ、それだけのことだったのか」
と落胆したベルリン市民は多かったことだろう。
クレバー・ハンス効果
ハンスがくれた教訓
このようなハンスの事例は、世界中の心理学者の間でたちまち有名になり、特に動物を用いた実験を中立に実施するうえで重要な教訓となった。
たとえば現代においても、事件捜査に登用される「警察犬」だとか、ガン患者を嗅覚で判別する「ガン探知犬」などの活用場面なんかでは、ハンスの事例と同様の問題が生じている。
犬は一見するとその優れた嗅覚によって信頼性の高い判断をしているように見えるが、実はトレーナーの「ここで反応して欲しい(あるいはして欲しくない)」という心の動きをささいな挙動から感じ取ってそれに応えているだけかもしれない。
そうならないように、警察犬やガン探知犬なんかを使う際には注意しておかなければならない。
たとえば、トレーナーが「どのような結果になれば望ましいか」を知らないようにしておくなどの対策が必要だろう。

このように動物が出題者の無意識な挙動を手掛かりとして、出題者の望むような行動をとるような現象は、その発見のきっかけとなった馬の名前を冠して、「クレバー・ハンス現象 -Clever Hans Effect-」(賢いハンス効果)と呼ばれている。
ハンスは賢い馬ではなかったのか
単に「ハンス効果」ではなく「クレバー・ハンス効果」として世に広まっているのは、「実は天才ではなかった」ハンスに対して、ちょっぴり皮肉めいたニュアンスも含まれているのかもしれない。
しかしハンスの名誉のために強調しておきたいのは、彼は言語理解や計算こそできないかもしれないが、人間の振る舞いの変化を敏感に正確に察知する天才ではあったということである。
少なくとも当時の人々が誰も気付かなかったようなささいな観衆の挙動のクセを、ハンスはただひとり手掛かりとして活用していたのだ。
これは十分すごいことだと思う。
クレバー・ハンスよ、胸を張って安らかに。
□ハンスは知能をもった馬として有名になったが、実は周囲の反応を見て行動しているに過ぎなかった。
□ハンスの事例をもとに「クレバー・ハンス効果」が知られるようになった。
⇒ 動物が出題者の無意識な挙動を手掛かりとして、出題者の望むような行動をとる現象
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