心理学の中にも色々なジャンルがありますが、そのうちのひとつに動物の心理能力を考える「比較心理学」という領域が存在します。
比較心理学とは、さまざまな動物の行動や反応をもとに、種族間でどこが違っているか(あるいは共通しているか)を比較することを通して、生物としてのこころの働きに迫っていこうという学問のことです。
比較心理学の世界において、かつてモーガン(1852-1936)という名のイギリスの心理学者は、とある「オキテ」を後世に残しました。
その格言の影響は大きく、100年以上が経った現代の研究者たちにもしっかりと根付いているのです。
「ある活動がより低次の心的能力によるものと解釈することができるならば、その活動をより高次の心的能力によるものと解釈してはならない。」
これだけ見ても分かりづらいと思うので、動物の心について研究史を振り返りながら、その趣旨を理解していきましょう。
この記事では、
- 進化論を基礎とした比較心理学の発展経緯
- ロマネスによる動物の知能の解釈
- 擬人化問題と「モーガンの公準」の趣旨
- ソーンダイクの問題箱実験と試行錯誤学習
についてまとめています。
犬や猫、私たちの身近にいる動物たち。
彼らの心の内側って、いったいどんなものなんでしょうね。
動物の知性ってなんだろう
かの偉大な哲学者アリストテレスは、生物の能力についてこのように考えたようです。
- 栄養摂取や繁殖の能力だけをもつのが「植物」
- それに加えて、感覚と運動の能力をもつのが「動物」
- それに加えて、推論の能力(理性, 心)をもつのが「人間」
であるようだ、と。
一方で現代に生きる私たちとしては、生物の能力を植物・動物・人間の3分類のみで考えるのは、さすがにちょっと大雑把すぎるような気がしてしまいます。
そもそも人間も動物のうちですし。
また動物といっても、ダチョウのように脳の小さい種もいれば、クジラなどの脳の大きい種もいるわけで、当然その知能には高低の幅があるように思われます。
私たちがあまり違和感なく受け入れているこの「動物の知性の幅」のような感覚は、実は19世紀以降の進化論的な発想に基づくところが大きいのです。
「動物は長い年月をかけて、進化によって徐々に能力を獲得してきた」
「動物の能力や私たち人間の高度な推論能力もまた、同様にそうした進化の成果だ」
ということですね。
知的能力の差を種ごとの絶対的な違いではなく、同じ進化の連続性の中でとらえているわけです。
進化論と比較心理学
ダーウィンが有名な『種の起源』を発表し、進化論を世に知らしめたのは1859年のこと。
その後1871年に出版した著書で、彼はこんなことを言っています。
人間の心理的能力も、きっと進化によって形作られてきたんだよ。
その勢いで、1872年にはこんなことも言っています。
イヌやネコと人間とを比較してみたら、これ結構似てるよね。
顔とか表情のつくり方とか、共通した特徴ってかなりある気がする。
こうなってくると、アリストテレス的な「推論能力がないのが動物、あるのが人間」みたいな単純な認識も、次第に改まってきます。
人間も動物も共通の祖先をもち同じ系譜の中で生きる種なのであれば、「推論能力」も私たちの専売特許ではないのではないか。
ヒトの心理的能力と似たものが、ほかの動物たちの内面にも備わっているではないか。
ヒトと動物の知性の共通点とは何か。違いは何か。比べてみようよ。
こうした発想から生まれ発展してきたのが、現代にまで続く「比較心理学」の研究の系譜なんですね。
ちなみに、上記のような経緯もあって「比較」という語にはちょっと人間中心主義的なニュアンスも感じられるので、それを避けて単に「動物心理学」と言う場合もあります。
ロマネスの「逸話法」
比較心理学研究の先駆者的存在となったのが、ロマネス(1848-1894)という人物でした。
彼もダーウィンの友人であり、進化論的な動物観の影響を強く受けています。
ロマネスのライフワークはといえば、動物のエピソードをひたすらかき集めることでした。
たとえば彼が収集したのは、
「○○さん家のワンちゃんは、家の内鍵を頭で押し上げて自分で外に散歩へ行っちゃうらしいよ」
みたいなお話です。
こういう動物の能力に関する具体例を津々浦々よりとにかく集めては考察し、そこから動物の知能というものを解き明かそうと考えたわけですね。
彼のような研究手法は「逸話法(いつわほう)」と呼ばれています。
そうして考察を深めたロマネスは、動物たちにはなかなか高い推論能力があるっぽいぞ、ということを主張するに至りました。
1884年の彼の著書『動物の心の進化』では、
- 昆虫には「親としての愛情」「好奇心」などがある
(人間でいうと生後10週間くらいの情動発達) - 鳥類にはさらに「競争心」「恐怖」もあり、絵や語の理解ができる
(人間でいうと生後8か月くらいの情動発達) - 犬や類人猿にはさらに「恥」「後悔」のような高度な感情も道徳性もある
(人間でいうと生後1年3か月くらいの情動発達)
といった分析がされており、心理的能力の分類や発達系統も含めて、かなり体系的に整理されています。
ロマネスが描いた精神発達の系統樹は、まさにダーウィンの「進化の木」とそっくりな見た目をしていますね。
擬人的な解釈
ロマネス的には、動物の知的能力についてこんなふうに考えます。
人間ほど高度ではないにしても、動物は質的にはかなり人間と近い情緒・意思・知性をもっているはずだ!
そうした前提に立つと、どこかのワンちゃんが家の扉の内鍵を自分で外せるエピソードに関しては、概ねこのように解釈できます。
犬は「ちょっと家の外に出たいな」と思って扉の前まで行き、内鍵がかかっていることに気づく。
飼い主がいつも鍵を上に押し上げているので、自分も同じようにすれば鍵を外せるのではないかと考えた。
実際に頭で鍵を動かしてみると扉を開けられたので、この学習によって次からは自分で鍵をあけて、自身の好きなときに外出できるようになった。
ちょうど人間の子どもが発育過程で何かを学んでいくときのような推論のプロセスを、犬も同じように辿っているんじゃないかという見方です。
こういった動物へのまなざしは、きっと多くの人が自然と体験したことのあるものではないでしょうか。
たとえば動物をテーマにしたバラエティ番組なんかでは、ホームビデオに映るペットたちにアテレコで可愛らしいセリフが入れられていたりしますよね。
「ご主人様、おかえりなさーい」
「それはボクのおやつだぞー!」
みたいなアレです。
そして「動物たちはきっと実際にそう感じ考えているに違いない」と思わざるを得ないくらい、彼らの身振りや表情というのは豊かで、ときに人間味を帯びて見えます。
私たちが動物を見て彼らの内面を想像するときの視点というのは、場合によってはほとんど人間に対するそれと変わらないわけです。
こうした見方は、「擬人的な解釈」と呼ばれます。
人じゃないものを、まるで人のように見立てている、ということですね。
さて、ここでようやく本題の「モーガンの公準」が登場します。
モーガンの公準は、そのような動物の擬人的な解釈に対して冷静なツッコミを入れるものでした。
モーガンによる批判とその後
イギリスの心理学者ロイド・モーガン(1852-1936) は、ロマネスの逸話法による行動解釈を受けて、こう思ったようです。
それってあなたの感想ですよね?
彼が言いたいのは、
「ロマネスの研究には観察者の主観と想像が入りすぎているのではないか」
「必要以上に擬人的な解釈で語られすぎているのではないか」
ということです。
モーガンの公準
モーガンによれば、たかだか犬が扉の内鍵を開けた程度のエピソードで、動物に人間と同質の推論能力があるとは言い切れません。
だってその証拠がないんだから。
本当はほとんど何も考えていなくても、適当に扉の近くでガチャガチャ動いているうちに鍵が開くことくらいありそうじゃないですか。
犬の内面なんて「なんか外出れた!ハッピー!」くらいのもので、その経験によって、扉の近くでガチャガチャするクセがついただけかもしれないじゃないですか。
要するにモーガンが言いたいのは、
「単純な心理的機能で説明できることに、わざわざ想像で複雑な心理的機能を付け加えるなよ!」
ということでした。
これがまさに冒頭でお示しした、「モーガンの公準」と言われる命題そのものです。
「ある活動がより低次の心的能力によるものと解釈することができるならば、その活動をより高次の心的能力によるものと解釈してはならない。」
公準とは、理論をつくるうえでの基本的な大前提のこと。
「動物はすごいんだ!」とただ主張するだけでは不十分なのだ。
高度な知性の存在を主張したいのなら、それが存在しなければ説明がつかないような決定的な証拠を提示する必要があるのだ。
それが研究者の態度というものだろう。
この冷静なツッコミは、駆け出しの比較心理学界隈に一石を投じる形となりました。
モーガンの公準は、動物行動を過度に擬人化しがちな状況を懸念したものだったのですね。
動物の学習はどのように起きるか
動物の知能を考えるうえでは、どうやら「学習」がひとつの重要なポイントとなってきそうです。
すなわち、 経験や記憶をもとに自分の将来の行動を変化させられる能力ですね。
犬が扉の内鍵を開けられるようになったのは「学習」という動物の知能による後天的なものであろうことについては、ロマネスもモーガンも、両者概ね異論はないはずです。
問題になってくるのは、動物の学習とはどのように起きるのか?という点です。
ロマネス的に言えば、
それは動物の中にある人間チックな推論能力の反映である
ということになるでしょう。
モーガン的には、
もっと単純に、考えなしのテキトーな行動の繰り返しによるものなんじゃないのかなぁ
という立場をとります。
いったいどちらが正しいのか、スパッと明快に答えることは誰にもできません。
言葉をもたない動物たちの内面のことですからね。
私たち人間は、あれこれと状況証拠をもとに、あくまで外から推定していくほかないのです。
推定していくほかないのだけれども、客観的に見て「これだけは間違いない!」という知見を慎重に積み重ねていくのが、少なくとも科学のあるべき姿なのでしょう。
実際、比較心理学はここから再現性と反証可能性をおさえた「科学としての心理学」の側面を強めていくことになります。
モーガンの公準は、比較心理学を「科学」の範疇につなぎとめておくための戒めであった、とも言えますね。
ソーンダイクの問題箱
さて少し余談になりますが、後に「動物の学習はどのように起きるか?」を実験観察によって解明しようと試みた人物が、アメリカの心理学者・ソーンダイク(1874-1949)でした。
彼は「問題箱(Puzzle Box)」と呼ばれる装置の中にネコを入れ、ネコが鍵つきの扉を開けて外へ出られるまでの時間を計測する実験を行いました。
箱の中にはヒモやレバーのようなもので作った仕掛けがあって、それをうまく動かすことで鍵を外せる仕組みです。
鍵を開けて箱の外へ出ることができれば、ネコは餌を食べることができました。
もしロマネスの言うような高度な知性が動物にあるとして、ネコが鍵の仕組みを推論し、その開け方を「理解」できるのであれば、一度でも箱から脱出できれば2回目以降の試行ではすぐにまた鍵を開けられるようになるはずですね。
しかし、ソーンダイクの示した実験結果はそうではありませんでした。
2回目以降の試行においても劇的な時間短縮は見られず、長いスパンで少しずつ、じんわりと脱出時間の減少傾向が表れたのです。
彼はこの実験結果を受けて、試行錯誤説という理論を主張しました。
ネコは箱の外の餌を求めて、扉の近くで色々な探索行動を手当たり次第に繰り返す。
たまたま鍵を開けられる経験を重ねるうちに、徐々に無駄な行動の頻度が減っていき、問題解決までの時間が短縮されるのだ、と。
つまり「学習」のプロセスというのは、極めて単純な試行錯誤の反復にすぎないということです。
お気づきのとおりソーンダイクの研究結果は、ロマネスではなくモーガンの立場に近い知見を提供しています。
この実験は比較心理学史の中でもかなり重要な契機となりました。
以降、試行錯誤説的な(あるいはモーガン的な)発想をベースにした実験研究が次々と行われることとなり、やがて後の行動主義心理学の発展の流れへとつながっていったのです。
心理学研究の対象を内観ではなく、客観的に観察・測定可能な「行動」のみに限定して考えるアプローチ。
スキナーの「オペラント条件付け」の発見や、様々な学習理論の確立を生んだ。
動物の心を考える人間
というわけで今回は「モーガンの公準」を軸として、初期の比較心理学の歩みについて学んできました。
進化論の発想をもとに、ロマネスが逸話法で築き上げた比較心理学のムーブメント。
その行く先を決定づけたのが、すかさず擬人的解釈に対してツッコミを入れたモーガンの公準なのでした。
これまで比較心理学が膨大な実験データと知見の蓄積を今日に残してきていることを考えると、その引き金とも言えるモーガンの公準が当時いかに鋭い指摘であったか、その影響力の大きさが改めて感じられる気がしますね。
すごいぞモーガン。ありがとうモーガン。
そしてもちろんモーガンの功績は、先立つロマネスの逸話法の研究結果があってこそのものでもあります。
なにかと「ロマネス批判」のイメージがつきまとうモーガンですが、比較心理学の先駆けとして研究を押し進めたロマネスの偉業に対しては、純粋にリスペクトを示していたのです。
また彼は動物の行動を人間になぞらえて解釈すること自体を全否定していたわけでもありません。
批判したのはあくまで「必要以上の擬人的解釈」でした。
モーガン自身、動物の心理というものは最終的にはやはり人間の主観によって説明されるべきものとして考えてもいたようです。
感じるのは動物、それを観察して記述するのは人間。
どこまでいっても私たちは、彼らの内面を外から勝手に推定することしかできないんですね。
もし体験できるなら、どんな動物になってみたいですか?
私は海沿いにある金持ちの家の飼い猫がいいです。